コラム:サントン人形の魅力

第13回: 有名人(2)

 今回はサントン人形に登場する有名人の2回目です。 さて、このおじさんは一体誰でしょう?

フレデリック・ミストラル - サントン人形 7cm

 グレーのマントに大きな帽子、赤いマフラーとベルト、手には なにやら巻物のようなもの。。。 只者ではなさそうです。 実はこの人は、フレデリック・ミストラル(Frédéric Mistral)という人です。

 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、 ミストラルはフランスではとても有名な詩人です。

ミストラルの肖像

 ミストラルは生涯、プロヴァンス語という言葉の復興に力を注ぎました。 代表作は1859年に出版された 『ミレイオ(Mirèio, プロヴァンス語。フランス語ではミレイユ Mireille)』 という作品です。 「ミレイオ」は長編詩でプロヴァンス語で書かれています。

 生年は1830年。 プロヴァンス地方のマイヤーヌという小さな村で生まれました。 ミストラルのお父さんは 自分の畑の麦刈りの監督をしているときに、手伝いに来ていたひとりの娘を見初め、やがて結婚しました。 そして生まれたのがミストラル。

 ミストラルは幼い頃、優しいお母さんが話すプロヴァンス語の伝説や歌を聞き、 またプロヴァンス語を話す村の子供と野山で遊んで育ちました。 小学生の頃は学校が好きではなかったようで、よくサボっていたようです。 ただ詩を書くのは好きで、10歳のときにプロヴァンス語で「子守歌」という詩を書きました。

 アビィニョンの中学校に通った後、ミストラルはエクス=アン=プロヴァンスの法科大学に入学しました。 そういえば、先日紹介した画家のセザンヌも、エクスの法科大学に入学してます。 ミストラルはセザンヌより9歳年上なので、同時期ではありませんが、 セザンヌは少なくともミストラルのことは知っていたと思います。

 さて、代表作のミレイオは、1851年に大学を卒業するあたりから書き始めたようです。 出版が1859年なので、8年間にわたり少しずつ書き足していったようです。 ミレイオがパリで出版されると、この長編叙事詩はたいへん話題になりました。

 ミストラルは、その後も長編詩を書いたり、フェリブリージュ(Férlibrige)と呼ばれる 南フランス文学の復興運動を熱心に進めました。 この文学復興運動の功績により、ミストラルは1904年にノーベル文学賞を受賞しています。 ミストラルは、ノーベル賞で得た賞金でアルルに民族博物館(アルラタン博物館、Museon Arlaten)を建てました。

 プロヴァンスの言葉と共に、その美しい風景、明るい日差し、温和な人達をこよなく愛したミストラルは、 今でもこの地方の人に愛されているのでしょう。 そのため、サントン人形のモデルにもなっているのだと思います。

プロヴァンスの風景

参考文献: 杉冨士雄、岩波文庫「プロヴァンスの少女-ミレイユ-」解説


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ご紹介したサントン人形はこちら。。

フレデリック・ミストラル - サントン人形 7cm

フレデリック・ミストラル